生き方

『戦略としての人智学』部分レビュー【シュタイナー】

高橋巖(たかはしいわお) 氏と、笠井叡(かさいあきら)氏の対談本

このお二人の対話というだけで関心を持って購入しました。

個人的に特に興味深かったところを3つほど紹介したいと思います。

戦略としての人智学

神について

神について2箇所いいな〜と思う文章がありました。

実はそのうちの一つは、この本の中で一番ハッとさせられる一文でした。
早速、その文章から紹介します。

「人間はとにかく創造し続けている限り、神はいらない。創造することをちょっとでもやめたら、神が必要だとか、国体が必要だという発想になるのではないですか?」

作曲家の高橋悠治氏の言葉だそうです。

神は自分の中に内在すると聞きはしますが、なかなか実感が湧かないというか、本当の意味で信が持てずに、つい自分の外に神を求めてしまうわけですが、なるほど!というか、心にすーっとすんなり素直に突き刺さる言葉でした。

あなたにとっては、どうでしたか?

もう一つ、この本の最初の方に出てきた次の文章も印象的で、これに通じる内容だと思いました。

私の感じでは「ヨアキム主義を生きる」ということは、自分の中に神を見つけるということだと思います。しかし、自分の中の神に出会える道が、自然科学的な考え方や合理主義的な考え方では全くありえないので、一言で言うと「能動的な態度をどこまでとれるか?」ということに尽きるような気がするのです。

註)ヨアキム主義 十二世紀、イタリアの思想家ヨアキムのフィオーレにより生じる。キリスト教を、父の時代・子の時代・精霊の時代の、三つ大きなアイオーンでとらえ、父の時代、子の時代のあとに終末が来るのではなくて、第三の時代である「精霊の時代」に、人間の本質である自我の力が真に開花し、一切の宗教的権威、信仰をこえて人間そのものの神性が現れ出流、と予言した。

ヨアキム主義という言葉はよく分からないですが(汗)、自分の中の神に出会うには能動的でなくてはいけないというのは、よく分かる気がします。受動的で受け身的な態度だと、やはり外に神を求めてしまう。

「創造的」「能動的」はキーワードだと思います。

意識・心・魂についてのサイエンス

「哲学と神秘学の違い」というタイトルの章にあった文章で興味深い内容で、もっと掘り下げたいと思う部分がありました。

『不老不死ー究極のサイエンス』金子隆一著(八幡書店、2006年) の一節より

[意識と体は別々に存在しているという]心身二元論の重要な証拠として、古来数多くの幽体離脱体験、あるいは臨死体験が報告され、近年でも、[中略]あたかも霊魂の存在を暗示するかのように臨死体験を扱った書籍や論考も数多く出回っている。しかし、実験結果からするかぎり、脳の外にある意識を持った実体、という概念そのものが、脳のごく限られた領域の機能不能や過度の刺激による幻想に過ぎなかったことになる。今後、この方面の研究がさらに進展すれば、霊魂の存在を支持するあらゆる主張は完全に力を失い、解体され、脳の機能論に吸収される可能性は相当に大きいであろう。
 結論として、われわれが今言えることはこうである。意識、心、魂などと呼ばれるもろもろの機能的実体とされるものは、実はどこにも存在せず、それらはすべて脳の中の一個のサブ・ルーチンが生み出すまったくの虚像にすぎないらしい。恐らくそれは、領域的にも限られた脳内のごく一部において生み出される感覚であり、当然、クオリアなどというものも、そのさらに下位にある脳機能の一つであると考えられる(360-361頁)。

 こういった内容の文章はそれほどめずらしいものではありません。簡単に言えば、人間の意識や霊魂は、約一リットルの体積を持つ脳がつくり出したものでしかないということですが。養老孟司さんの考え方も、恐らくそこに行き着くものだと思うのです。こういう考え方は、現在ではかなり浸透していて、こらからは、ますますこれが情報化される方向に行くと思います。そこでこの本に書いてあるような、人間の意識をコンピューターの中にダウンロードし、人間が機械自我と一緒になるということは、神経が意識を生んでいるということが前提になると思います。著者もそう考えているのでしょう。

 しかし、私の見方では血液も意識を持っています。つまり血液も神経に勝るとも劣らない、意識と結びついた人体素材だと思います。この本によれば、神経は微細な電流が流れるので、それをダウンロードするということです。しかし、血液をダウンロードすることはできないです。つまりこの本のようにいくと、血液人間というものがなくなりますね。

以上、戦略としての人智学 P33-35より

あなたはこれを読んで、どう思われましたか?

僕が衝撃だったのは、こういった内容の文章がめずらしいものではなく、こういう考え方がかなり浸透しているという部分でした。

意識・心・魂は、脳が作り出しているものでしかなく、いずれサイエンス的に作り出していけるみたいなことでしょうか?
そして、そういった考え方が浸透しているということは、世の中のかなりの割合の人たちにとって受け入れられている考え方だということでしょうか?

僕にとってはかなりの衝撃で驚きでした。

小林秀雄の講演CDに、偉い学者せんせいと庶民の女性とのやり取りを取り上げて、小林秀雄が科学的なこと精神的なことについて語っている内容があったのですが、それを思い出しました。

確か、第2巻のベルグソンの哲学についてのところだったか、第4巻の精神と肉体の関係についてのところだったかだと思うのですが。。。

是非聴いてみてください。

信ずることと考えること (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 2巻)

現代思想について (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第4巻)

労働することと経済

最後に3つ目に印象に残った内容です。

戦略としての人智学 P151-154より

 先日訳されたシュタイナーの『社会の未来 ー シュタイナー一九一九年の講演録』(春秋社、2009年) の表紙のところでアピール文として書いておられた「労働は経済生活から自由にならなければいけない」という言葉がありました。つまり「労働する」ということと「賃金をもらう」ということは別の問題であるということですよね。

 私はよく覚えているのですが、四十年程前、慶應大学でまだ美学の教授をされていたころの高橋さんを訪ねて行った時に、「シュタイナーの経済論は何ですか?」と質問したことがあるんです。そうしたら非常に簡明に、「これから必要なのは賃金契約ではなく、分担契約です」と答えてくださいました。この言葉は私の中でそれ以降、ずっと残っている言葉ですが、シュタイナーの社会論や経済論を読んでも、どこにも「分担契約」という言葉で出てこないのです。

 しかし高橋さんはあの時、そうおっしゃったんですが、確かに私は「何をいくらで契約するか」ではなくて、「自分は何を引き受け、分担していくか」が一番の責任の問題だと思いました。ですから、自分は音楽を生み出すとか、科学者になるとか、色々な分担のあり方がると思いますが、分担契約ということにおいては、賃金契約に比べてはるかに責任は重いですよね。賃金契約の場合、「やればいい」とか「ある時間、そこにいればいい」ということになりかねません。つまり内実がないのです。ところが、分担契約の場合、分担して自分が引き受けたことに対しては、命がけで行わなければなりません。

(中略)

 ある意味で日本の雅の文化というのは分担契約ですよね。つまり自分のやることに関しては、お金なんかどうでもいいという。これは雅の精神だと思うのです。いくらだったらやるのではなく、やるのだったら自分の責任においてやる。こういう文化はあるようでないですよね。

 芸術においても、例えば音楽家が演奏するにしても賃金契約です。どんなに一流の音楽家が来ても「いくらでやるんですか?」ですよ。日本人の雅の精神というのは「ほんとうにここに私が必要であるなら、それを私は引き受けます」です。このような文化は、日本の中に深く根ざしているような気がします。

 その代わり、頼んだ方もそれなりに責任を持つということですよね。「契約しなかったんだから、思いっきり安いお金で雇える」とか、そういうネオ・リベラリズム的発想が生じかねない時代ですから。

冒頭の「能動的」「創造的」に繋がると思います。さらに「引き受ける」「責任を持つ」といった態度が加わることで、より生き生きと生きていけるのではないかと思います。

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