weblio辞書によると次のように書かれています。
ぼん‐ぷ【凡夫】《「ぼんぶ」とも》
1 《(梵)pṛthag-janaの訳》仏語。愚かな人。仏教の教えを理解していない人。異生(いしょう)。
2 平凡な人。普通の人。凡人。
“凡夫” って、仏教用語ですよね。
仏教の言葉って奥が深いというか、一言二言では完全に理解しきれない言葉が多いです。
一般的な理解としては、このくらいで十分かと思いますが、もっと詳しく知りたい人向けに参考になればと思って、この記事を書き始めました。
きっかけは、シュタイナーの人生論 に載っていた 南無阿弥陀仏 の「八 凡夫」の章です。
といっても、まだちゃんと理解しきれていないので、分かるように書けるか不安ではありますが……。
凡夫とは?意味を解説【南無阿弥陀仏 柳宗悦著より】
本書でも一つの章を使って十数ページで説明している内容なので、要約したり言葉を置き換えて説明するのは難しいです。。。
そこで、本書の中から理解の手助けになりそうな箇所をいくつか抜粋し載せました。伝わるといいのですが。。。
凡夫を理解する手助けになりそうな文章の抜粋
- 実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何なる時世に住むとしても。これ以上の劣悪な時世があろうはずはない。この意識なくして「宗教は成り立たむ。『往生要集』の著者は、その序文に「濁世末代」云々と述べた。今の吾々にとっては今ほど醜悪で惨めな時代がかつてあったとは思えぬ。私は何も目前に迫る貧困や戦争の恐怖だけを見ているのではない。心の貧困、文化の俗臭は、今に至って最もひどい。道徳的にもこんな廃頽(はいたい)した時代が他にあろうとは考えられぬ。昔の人は「厭離穢土(おんりえど)」といったが、誠にこの地上のこの現下の生活が何より穢土なのである。だから「欣求浄土(ごんぐじょうど)」たらざるを得ぬ。この穢い国土を何とか厭(いと)い離れて、浄(きよ)い王土を欣(ねが)い求めるのである。穢土にいたままではどうにもならぬ。安心して活きていられる浄土が欲しい。仏教における浄土門はこの切な求めに答えようとするのである。穢土は何なのか。二相に堕ちて相争う世界である。浄土とは何なのか。不二に座して相和する世界である。
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・いつの時代にいても今が最悪な時代だという意識 → なるほどと思いました!
・この世は相対世界(必ず相異なる反対のものが存在する世界・比較対象がある世界)、お浄土は絶対世界(他との比較や対立のない絶対の世界)
- しかし、社会への憤りでは、まだ切実な宗教心とはいえぬ。自身へ向けられた嫌悪でない限りは、また穢土への味方はなまぬるいといえよう。私を囲る社会は、直ちに私自身の事ではない。厭離の想いが、何よりもまず我が心内の穢土に注がれる時にこそ、浄土への切なる欣求が湧き上がる。このことなくば、まだ菩提心がおこったとはいえぬ。考えると我が悪、我が愚はいうもおろか、我が善、我が賢そのものが、既に穢土なのではないか。どれとて二見の妄想に彷徨っていないものはない。ただ穢土の住民だというに止まらぬ。実にその主人たるに他らなぬではないか。何より現に今、自他の二を分けて、憎愛のさ中に沈んでいるではないか。日夜生死の巷に彷徨って、苦薬のただ中に迷い続けているではないか。この二相をどうしたらよいのか。二相こそ穢相ではないか。実に求道の想いはここに根ざさねばならぬ。道心とは浄土への欣求を意味する。
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・批判の矛先が外に向いているうちは、まだまだということですね。どこまでも自分の内に向かなくては。
・この世の相対世界の意識でいるうちは、凡夫ということだと思います。しかし、だからこそ道心が芽生える、といえるのではないでしょうか。
- それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深いものだという懺悔(さんげ)を伴うものでなければならぬ。この世にどんな悪逆なものがいようとも、自分の力がそれにも増して罪深い者だということが気附かれる時、始めて罪の意識が真実なものになるのである。つまり最悪な罪人以外の自分ではないと気附くことである。いわば「天上天下唯我独悪」と考え尽くすところまで来なければならぬ(「独悪」も「独尊」も実は同じことを表と裏から見ているに過ぎぬ)。ただに自分が悪いということだけではなく。自分こそ悪しき者、自分独りが悪しき者だと分かりぬくことである。だから全く出離の縁がないと言い切るより他に言いようがない。ここまで達してのみ、またここに徹する時のみ、始めて罪の具体的な意識となるのである。
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・なかなか自分の内面をそこまで見るのは難しいですが、どこまでも深い懺悔ですね。
・そこまで撤しられた時の心の状態はどんなでしょうね?
- だが不思議である。この事実が分かる途端に世界の転倒が起る。誰よりも自分が悪く、否、自分一人が悪く、否、悪そのものが自分だという意識は、やがてヤクザなその自分に見張りをつけることとなろう。少しでも自分に執着が残るなら、全き懺悔とはいえぬ。それ故少しでも自己への肯定が残れば、「唯我独悪」の念から離れてしまう。そんな程度の罪の意識は、まだ罪の懺悔とはならぬ。まだ自分への弁明が残るではないか。だが自分こそ罪人だと気附かせて貰うと、世界の光景は俄然として一転する。自分が無限小になるのであるから、自分に非(あらざ)るものは無限大となる。小我と大我とが真向きに触れ合う。自己の無限小とは、もはや自己を残さぬことである。残る何ものもなくなる時こそ、自己の完(まった)き捨棄(しゃき)である。この放棄のその刹那は、無限大なるものに当面するその瞬間である。ここで小が大に接し、穢が浄に即する。否定が肯定に直結するのである。この転換の刹那を、我よりすれば往生という。なぜなら無限小の無限大への投入だからである。仏よりすれば正覚(しょうがく)という。なぜなら無限大の無限小への顕現だからである。我が往生と仏の正覚とは同時同体になる。これを済度といい滅度と仏教ではいう。罪業から救われ、穢土から浄土に度(わた)るからである。滅度は罪が滅せられ此土(しど)から彼土(ひど)に度される意である。此岸が彼岸に則するという方が更によい。渡とは一方から他方へ移るというより、一方が直ちに他方となることである。渡るとは距離の消滅を意味する。
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真に自分が最悪の罪人だと意識できたら・分かったら、そこまでいったら転換が起こるようです。いったいどんな境地になるのでしょう?
- 考えると凡夫が成仏するということより、有難い宗教的真理があるであるか。だがこの場合、凡夫は成仏する資格を得て成仏するのだと受け取ってはなるまい。一物の資格もないのが凡夫である。それ以外に凡夫の意味はない。それ故どうしても地獄に落ちると思うより致方がない。ところがどうあっても落ちると気附いたその刹那が、不思議にも蓮の台(うてな)に在ることを見るその刹那なのである。何故多くの人が浄土を見ないままで終わってしまうのか。彼らはどうあっても落ちるほどの凡夫だということを自分に見ないからである。つまり凡夫だと気附かない愚かさによる。自分を繕ったり匿したり誤魔化したりして、素裸にならない。いずれも我執に囚われる業なのである。そのため不二の浄土を見ることが出来ぬ。祖師たちはこのことをなんとかして人々に報せようと、千語万語を費やしているのである。反語のようであるが、実に吾々は凡夫になりきれないから救われないのである。凡夫のくせに凡夫でない振舞をするのが妄執の悲しさである。その妄執が済度の邪魔をする。凡夫だと分からせて貰えば身を投げ出すより仕方がなくなる。この時のみが画集の絶える時である。それが絶える時が、浄土に迎えられるその時である。だから凡夫にこそ成仏が確約されているのである。ただ凡夫のくせに凡夫でないと装うために、この確約を反故にしてしまう。
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めちゃくちゃ分かりやすい!
まとめ
いかがでしたでしょうか?
これだけでは、凡夫の意味がクリアにならなかったかもしれませんね。
もっと詳しく知りたいと思いませんか?
僕は、仏教の教えについて、もっと知りたくなりました。
シュタイナーの人生論 もそうでしたが、南無阿弥陀仏 も学びの深い本でした。
また人生に、生き方に、参考になりそうな内容をアップしていきたいと思います。